この世のすべてはメッセージ

感情も出来事も、すべてがメッセージ。

お金に対する思い込み

前回の記事から2ヶ月経過しているが

まだ恐怖、不安を感じ続けている。

 

しかし、気づいたことはある。

 

この不安は、わたしが持っている

お金に対するネガティブな思い込みだ。

 

「お金を儲けるということは、人を騙して、

不当な対価を得ることだ。

世の中は、隙あらば人から

ぼったくろうとしているやつらばかりだ」

 

だから、お金を支払うときに、いやな気分になる。

いつだってその支払いによって得られるものの価値を感じずに、

騙されてお金を取られているんじゃないかって感じている。

 

「お金を稼ぐには必死で働かなくてはならないし、

遊んでいたらお金なんてなくなちゃう」

 

だから、なにもしていないと罪悪感を感じるし、

遊びに行くときにかかるお金、

欲しいものを買い物をするお金に対しても、

無駄遣いしちゃったかな、と、これまた罪悪感を感じている。

 

大体このふたつだと思われる。

 

この思い込みがあることに気づけよ、という

メッセージだったんだな。

 

 

この観念というか、マインドブロックというか、

思い込みは絶対、手放すことができる。

それはなぜか確信できている。

 

今、まだ感情を俯瞰視しきれていなくて、

恐怖、不安にのまれている時間がけっこうある。

正直しんどい。

お腹が痛くなるわ。

 

 

 

 

リスクに対する恐怖

「リスク」という言葉の意味は、時に「不確定要素」を指す。

ネガティブな「危険」という意味だけではない。

ポジティブな不確定要素も指す。

のだそうだ。

 

仕事でリスクマネジメントに関わったときに、そう学んだ。

 

そして今、わたしは不確定要素に対して恐怖を感じている。

 

今日。

たまたま、自分が「ちょっと調べる必要があるなぁ」と

ネットでとある検索をかけたところ、

自分の投資活動にまつわるネガティブなニュースが

「今日付け」で、出ていたのだ。

 

わたしが「今日」、検索をかけたことは偶然ではないのだろう。

 

だから、この情報がわたしのところへやってきたのだ。

 

今すぐに、わたし自身に直接的な損失が起こる内容ではなかった。

 

しかし、あらためて投資というものに対するリスクを再認識し、

そして、恐怖を覚えた。

 

万が一の可能性として、経済的な損、苦労をする恐怖である。

 

まだ損をすると決まったわけではない。

「可能性」に対して恐怖を感じたのだ。

 

とりあえず、ニュースを見た直後30分くらいはうろたえた。

 

そして、まだ起きていない可能性に怯えることはない、

と言い聞かせ、今、この記事を書いている。

 

この感情はなんだろう?

あえて分類するなら、恐怖に該当する感情だ。

この感情は、わたし自身からのメッセージだ。

 

わたし自身がこの感情の答えを、知っている。

向かい合ってみよう。

 

しっかし、コワイもんは、コワイのだよ。

 

常に軌道修正だ

最近、自分の行動に一貫性がないな、と

もやっとする。

 

未来を、夢を、言葉にしよう。

そしてとにかく行動しよう。

と心がけている。

 

で、すぐにその内容を変えてしまうことがある。

 

理由はいろいろだ。

 

その瞬間は、「これいいじゃん」と思ったこと。

だけど、すぐに「あれ?なにか違う?」と

やろうと思っていたことを、やめてしまったりする。

 

あるいは、うっかりだ。

全体を俯瞰して、先のことまで考えて

すこし思案してから行動すれば、

回避できた事態。

でも、やってしまったあとに、

うっかりに気づく。

慌てて方向修正する。

 

ああ、一貫性がないな。

そしてもやっとする。

 

心は、なにを伝えようとして

このもやっとした感情を起こしているのだろう。

 

んー。怖い、という感情だなぁ、これ。

なにが怖い?

 

そうか。

他者からの信頼を失うのが怖いのか。

 

有言実行できない自分は、

他者から信頼されなくなってしまうんじゃないか。

 

それが怖い。

 

他者からの信頼。

社会で生きていくには大事な要素でしょ。

 

信頼を失うのは怖いなぁ。

社会の中で、心地よい人間関係の中で

生きていきたいもの。

 

じゃあどうしよう。

どうしたい?

自分軸で思考してみよう。

 

後悔の感情は、正直しんどい。

今この瞬間以前のことは、もう過去だ。

過去を見つめて後悔していて、

他者からの信頼が得られるのか。

いや、そうじゃない。

 

方向性の転換も、行動のキャンセルも、

その瞬間ごとの軌道修正だ。

 

自分自身に、

そして周りのみんなに、

良い結果をもたらそう、と

その瞬間に考えた言動だ。

 

今、この瞬間から、

未来がどうあってほしいか、

に思考の焦点を当てよう。

 

それと、

まだ、自分と他者とのギャップを受容しきれていなくて、

「他者からの信頼」という

他人軸での価値観になってしまっている部分も、

あるんだよな。

 

まず、自分自身を信頼しているか?

 

ちゃんと軌道修正している自分を

信頼しているか?

 

ああ、これか。

軌道修正している自信がないんだ。

 

本当に修正なのか。

またすぐに変えてしまうんじゃないか、

一貫性のない自分さんよ。

 

と自分自身を疑っている。

 

いいじゃないか、変えたって。

常に軌道修正してるってことで。

 

絶対に良い方向に進む選択をわたしはしている、

と自分を信じるようにしよう。

 

 

 

他者と自分のギャップを認識する

他者と自分のギャップを認識しよう。

他者への勝手な期待。

期待した他者からの応えが、
自分の思い通りではなかった時の、
勝手な不満。

他者から自分へ期待されているであろうと、
勝手に自分が思い込んでいること。

それに応えられなかった。
と勝手に評価して勝手に落ち込む自分。

自分軸で思考すること。

自分はどうありたい?
自分は何がしたい?

とにかく自分だ。

最近の心が訴えてきた不安、苛立ちは、
他者に思考の軸を寄せていたから。

他者と自分にはギャップがある。
それを受容すること。

それで、やっと自分自身を受容することが
できるはずだ。

断片的かつ感覚的なメッセージだけど。
今は、まだ完全に受容しきれていないけれど。

意識していこう。
意識することで、わたしは変わるはずだ。

やっちまった

やっちまった。

ということがあるじゃん。

 

たとえば仕事の失敗。

プライベートの会話。

様々な場面で、うっかり、やらかしちまうことが。

 

もともと、「あたし何やってんだー!」と自分を責めて、

くよくよするタイプだという自覚がある。

今、だいぶマシになっているけれど。

 

自分が、あの時、こうしていれば。

なんであの時、自分はあんな言動を取ってしまったんだ。

 

わたしの不注意で、

他者に迷惑をかけてしまった。

他者に、不快な思いをさせてしまった。

 

不注意をやらかした自分を、とことん、責める。

 

後悔。反省。

いや、ひたすらに後悔、だな。

 

くよくよタイムは、自分をひたすら、責めている。

 

やっちまったものはしょうがない。

ここからの対応で、リカバリーするしかない。

理性ではわかっていても、くよくよしてしまう。

 

ああ、また「自分はダメな人間だ」と

自分いじめをしてしまっている。

 

うん。自分を許そう。

なにをやらかしても、他者に迷惑をかけていても

わたしは、わたしを許容するよ。

そう、自分自身に言葉をかける。

 

うっかりだった。

悪意はなかったし、故意でもない。

謝罪も反省もした。

今後に向けての注意点も認識しなおした。

 

許すも責めるも、自分自身なんだ。

 

 

 

ありのーままのー

約2ヶ月前、無事に転職を果たした。

 

新しい職場、仕事は、素晴らしい条件で、

満足のいく転職だった。

 

転職活動中に書き起こしていた

マインドマップの条件を、すべて満たしている。

職場の人たちも良い人たちばかりだ。

 

緊張しながら、

少しネコをかぶりながら、

職場の人たちとも徐々に打ち解けてきた。

 

しかし、不安を感じている。

日に日に増す不安、これはなんだろう?

 

わたしの言動は、

相手に不快感を与えていないだろうか。

嫌われてしまったり、していないだろうか。

 

ふと一日を振り返って、

「あの時のわたしの発言で、

相手の表情が微妙だった気がする。

もしかして、無神経な言葉を発して

しまっただろうか」

と、その日の言動に、

いちいち不安になっている。

 

これはなんのメッセージだろう?

 

自分会議をやってみた。

 

「人に嫌われるのが怖い?」

「なんでそんなに怖い?」

「嫌われるのがイヤなんだね」

「うん、好かれたいよね」

「誰からも好かれたい、

愛されたいよね」

 

「でも」

 

「わたしは誰からも

愛されるような人間ではない」

 

「だから、わたしが素を出したら」

 

「きっと嫌われてしまう」

 

「わたしは、誰からも

愛されるような人間ではないから」

 

「・・・というコトか。」

 

 

なんてこったい。

 

なんという自己否定。

 

素の自分は、愛される価値がない人間だ

と、そんな観念があったのだ。

 

これは、心が辛いはずだ。

 

ごめんね。

それは辛かったよね。

 

わたしのダメなところを

理性的に思い浮かべてみても、

そんなに嫌われるような人間ではないよな、

という結論におちつく。

 

しかし、もやっとした不安が起こるのは、

心からのメッセージだ。

 

いっそ、職場での人付き合いを

極限まで減らしてしまおうか

とすら考えていた。

 

 

しかし、それでは、たまに接点を持った時に

いちいち不安になるのだろう。

心が叫び続けるにちがいない。

 

心は、素のままでいたいのだ。

 

とりあえず歌っておくか。

 

ありのーままのー

すがたーみせるのーよー♪

 

この観念を解消する自分会議は、

明日にでも。

 

とても眠いので、おやすみなさい。

 

 

「聞いて聞いて」のメッセージ

前回の記事で、

「ねぇ、おかあさん、聞いて聞いて」

という感情があがってきたことを書いた。

 

感情があがってきた瞬間は

涙がとまらないほど切なかったのだが、

この感情が、どういうメッセージなのか、

なぜか掘り下げる気分にならず、

意識だけはしつつも、

放ったらかしていた。

 

そして本日。

hiroさん主催のセミナーに参加してきた。

 

 

そこで、「聞いて聞いて」のメッセージの

意味が、クリアになったのだ。

 

 

セミナーの質疑応答タイムに、

「自分で自分にダメ出しをしているのを

感じている。

それがなかなか取れないのだけれど、

どうしよう」

という質問をした。

 

自分は歴史が好きで、

歴史についてブログを書いていること、

それを書くのをサボっていると

「自分ダメ出し」が出てくること、

好きだからこそ妥協できない感情もある、

といった話もした。

 

そこで、いただいたアドバイス

 

「自分以外の人は、

こういったことに興味なんかないんだ、

という思い込みがあるんだよ」

 

「自分はこれが好きだ!でいいじゃない」

 

 

 

・・・そうか。

 

「あたしが好きなことに、人は興味がない。

=あたしが好きなことには、価値がないんだ」

という思い込み。

 

これは、「お母さん、聞いて」を

我慢したことで生まれたんだ。

 

お母さんは仕事や家事に忙しい。

あたしの話は、それに比べたら

聞いてもらう価値なんかない。

 

という感じで、生まれたんだろう。

 

そうか。

あの感情のメッセージは、

「自分の話は、人が興味を持つような

価値なんかない」

という思い込みに対して、

「それは悲しい」と訴えてきていたのか。

 

そして、更に納得したこと。

なぜ、4月半ばに感情が出てきた時、

掘り下げる気にならなかったのか。

 

5月の上旬に、自然とクリアに

なるからだったのか。

 

なるほどなぁ。

 

この世界は(自分も含めて)、

よく出来ている。

 

 

( hiroさんのブログはこちら

 >> 自由な風に吹かれて )