この世のすべてはメッセージ

感情も出来事も、すべてがメッセージ。

仕事ならしょうがない。いや、なくない。

ここ1ヶ月ほど、仕事量がいきなり増えた。

久々の「終電までは就業時間」という時間の使い方になってしまっている。

 

これはしんどい。

 

すべてのプライベートを後回しにして

いやだなぁと思いながら、仕事を優先している。

 

これはなんのメッセージだろう?

 

仕事が最優先。

仕事ならしょうがない。

 

というキーワードで思い当たったのが、

小さい頃、共働きの我が家で、ひとりで過ごしていたことだ。

 

わたしは、幼稚園の頃から鍵っ子だった。

 

家でひとりで過ごした記憶がある。

 

さみしかった、という感覚は、今までなかったけれど、

本当はさびしかったのかもしれない。

 

本当はさびしかった小さなわたしが、

未だに癒やされていないまま、なのか。

 

母がいなくても、自分がひとりで放っておかれても、

「仕事ならしょうがない」

という我が家の常識がそこにあった。

 

そうじゃないんだ。

 

仕事ならしょうがない、それが当然。

 

しょうがなくない。

優先すべきはわたしをちゃんと可愛がることだ。

わたし自身が、わたしを優先して、わたしを愛することだ。

 

これかー。

意外なところに観念の発生地点があったなぁ。

 

だって、さびしかった、という感情が思い出せないのだ。

 

小さなわたしは、ひとりで家にいることが当たり前で。

 

たまに友人宅に遊びにいくと、

友人の母親がおやつを出してくれて。

 

驚いたし、うらやましかったけど、

なぜかわたしは、

「わたしなんか、子供なのにひとりで留守番ができるんだ。

すごいだろう」

くらいに思っていたような気がする。

 

 

うらやむばかりでは、なんか自分が惨めな気がして

悔しくて、強がっていたのかな。

 

とりあえず、

「仕事ならしょうがない。だって最優先すべきは仕事だから」

という観念を手放そう。

 

わたし自身が、わたしを優先して、わたしを愛することだ。

上がったり下がったり

気分が上がったり下がったり。

観ずる、気づくことが出来ているだけ
以前よりましになっているのかな。


他人に軽んじられると、瞋の気持ちが
沸き上がる。これは怒りだ。

なにに怒っているのだろう?
自分を軽んじられることに怒っている、
この根源はなんだろう?

少し時間を経て気づいた。

自分自身に重んじて欲しいのだな。

わたしは、自分自身を軽んじている部分があるのだ。

自分を一番、大事にしないとな。

自分の未来が設計できない

未来のことを考えてみた。

未来を悪く思い描く癖があるので、

あえてポジティブに、

自分が思いついた「こうなったらいいな」という未来を。

 

そうしたら、また、もやっと感情が不快感を示した。

 

もやっとは、なかなか言語化しない。

おそらく、「不安でいないと不安」が

まだ、出てきているらしい。

 

遠い未来を思い描くと、

まるで他人事のようで、もやっと反応は軽い。

直近の未来のことを思い描くと、ものすごく、

もやっとする。

 

言語化しないなりに、解釈してみると。

 その描いた未来はさ。

 自分のいいように描いたものでしょ。

 そうならなかったらどうするのさ。

 また傷つくことになるんだろう?

 だったら悪い事態を想定しておいたほうがいいだろ?

 

 大体、自身のことでなく、他人の言動まで、

 自分の都合のよいように未来を描くなんて。

 彼らがそのとおりに現実化するとは限らないじゃないか。

 そんな不確定要素を未来に設定するなんて危険だよ。

 悪い事態を想定しておいて不安になっていなよ。

 

こんな感じだろうか。

 

そういえば。

わたしは未来を設計しようとしても、

あまりわくわくしない。

自分が認識している、「自分の好きなもの」を

並べている感じ。

 

これをやったら楽しい。だからやるんだ。

 

といったわくわく感がない。

10年後くらいの未来を描くときは

「どうせそうなるかわからないから

気軽に適当に描いておこう」といった

適当さがあるのを否めない。

 

なぜだろう?

 

 

 

だって嫌われちゃうじゃん

自分のミスに弱いわたしは
どうやらアダルトチルドレンだったらしい。

心があまりにしんどくて。
言葉にならない叫びのようなものを感じて。

どうにかする術はないかと
調べてみたら、
このキーワードがヒットした。

アダルトチルドレンは病気ではないけれど、
生きづらいのだそうだ。

治療方法もあるらしい。

アダルトチルドレンの治療は、
心ちゃんと対話する行為に似ている気がする。
(治療受けてないから、想像だけど)

すっかり心ちゃんと
仲良くなったつもりでいたわたしは、
また自分いじめをしていたようだ。

というわけで、久々に心ちゃんに
呼び掛けた。

ごめんね、心ちゃん。
わたしはまた自分いじめをしていたんだね。
あなたのことはわたしが絶対守るから。
最優先なのは心ちゃんだよ。

その日の夜。

不意に、心ちゃんが叫んだ。

だって嫌われちゃうじゃん!
ちゃんとやらなきゃ、
失敗なんかしたら、
人に迷惑をかけたら、
嫌われちゃうじゃん!

子供の泣き声そのままの心の叫び。

不意に聞こえた心の声だったけど、
わたしもとっさに叫び返した
(声は出していない)。

そっかぁぁぁ。
そうだったんだねぇぇ。
ごめんねぇぇぇ。
ずっと気づいてあげられなくてごめんねぇぇ。
大丈夫、あたしが守るからね!
あたしはなにがあってもあたしを最優先にするよ!

すると、頭をいっぱいに占めていた、
自責、後悔の念がすっと消えた。
ミスを思い返しても、反応がない。
このあと、仕事の評価が下がる可能性を
思い浮かべても、心は平穏なまま。

あれ?
ホントにこれだけですっきりしていいの?

最近具現化が早くて。

昨日から今日にかけて、心の中で他人へのダメ出しをし続けていた。

しかも先入観込みで。


「あー多分、なにやってもダメだな、あの人」

これはいかん。と思いつつも止まらない。

 

「あの人、たぶん使えないな。

 あたし、なんで採用OKしちゃったんだろ」

自分で採用の決定をしたくせに。

その自分の判断にも後悔しまくって。

実際に一緒に働いてもいないのに。

 


そんなタイミングで、仕事のうっかりミスをおこしてしまう。

 

しかも、売上にダメージを与えるミス。

起因が自分のケアレスミスなだけに、

自分を責めるしかない。

 

 

速やかにしかるべき謝罪をして、
もう同じ失敗はしないよう再発防止策を取ったけれど。

 

そういえば、昨日からずっと、

思考が 事象を見ず、妄想を見て歪んでいたな。

と気づく。

 

他人にダメ出ししている間、

自分もめっちゃ不愉快だったじゃん。

ずっと気分悪かったじゃん。

自分の心が発した感情は、具現化するんだよ。

知ってたじゃん。

 

ちなみに。

こういった失敗の場合、わたしは自分をとことん責めてしまう。

とにかく関係者に申し訳なくて。

後悔に苛まれて、

自分の存在価値が0になった気分にさえ、なる。

 

このケースは何度か経験がある。

自分は「くよくよする気質」で、

これは自分でもどうにかしたいと、ずっと思っていた。

 

・・・ここで、さらに気づく。

 

くよくよする気質?

自分自身すら、「想」の発する「思い込み」で

歪んで見えている可能性はないか?

 

どうにかしたい?

今ここにいるありのままの自分を受容していない、ということか?

 

今、気持ちが辛いのは、

自分の存在を、価値を、自分が認めていないことではないのか?

 

これが、次の課題なのかもしれない。

気づく、ということ


長らく手こずっていた、不安を手放せない問題。

 

最近、まぁまぁ、乗り越えた気がする。

 

どうやったかというと、ヴィパッサナー瞑想をきっかけに、
さまざまな仏教系の識によるところが大きい。


不安を手放せなくて、どうにかする術はないかと
あがくように情報収集していたら、
ヴィパッサナー瞑想」という本があることを知った。

 

もともと瞑想は好きだし、仏教も好きなので、即購入。

 

これが、実に良かった。

 

ヴィパッサナーは「気づき」の瞑想。

 

不安は、自分の「想」が作り出すもの。
(般若心経に出てくる「受想行識」の「想」という単語を使ってみた)

 

想が、事象を歪ませる「不安」を作る前に、
事象に気づき、その事象のみを言語化し続ける。

 

常に、これを続けることで、「想」が発する歪みに気づき、

「想」をコントロールできることに気づくのだ。

 

やってみたら、納得。

 

確かに、不安は、自分の「想」が作り出していた。
まさしく、気づきの瞑想だ。


間を空けず「維摩経」という経典に興味を持つ機会があった。

 

有名ではない経典の名前だけれど、

なぜか惹かれるものがあって、

100分で名著の「維摩経」を見てみた。

 

ヴィパッサナー瞑想が、四苦から解放される為の「やり方」

を説明しているものだとしたら、

維摩経は、なぜそのやり方で四苦から解放されるのか、

「構造」を説明してくれた。という感想を持った。

 

構造がわかると、さらに納得感が深まる。

 

ヴィパッサナー瞑想」の本 と
維摩経」の組み合わせは、実に良い。

 

その他に、たまたま聞いたとある僧侶の方のお話しだったり、
般若心経の解説だったり。

 

ご縁がつながるのか、仏教系の知識を得る機会が続いたなあ。

 

そして、それらの識が、不安を手放せない問題を、徐々に解消しつつある。

 

 

 

で、ひとつの解消が見えてくると、次の課題が出てくるわけだ。。。

 

不安を持っていないと不安


2018年の秋ぐらいから、不安、という感情が、私の思考に頻繁に現れる。

主にお金に対する不安。

前回の記事と同じ内容やんか。
まだ手放しきれていないんかい。長いな。

 

お金関連の不安、思い込みは、

少しずつでも、ちゃんと手放しつつある。


でも、たまに振り子のように、すんごい勢いで戻ってくる。
ぶっちゃけツラい。


これを手放しきれば、素晴らしい解放感が待っているはずなんだ。
しかし、どうやって手放せばいいんだ。

とぐるぐるしている、今。

 

損をしたらどうしよう。
貧乏になったらどうしよう。
投資を始めたけど、私は騙されたんだろうか。
私は失敗をしたんだろうか。

 

これらについて、頭では、

「そんなこたぁわからない」と、答えることができる。

未来のことはわからない。頭では、そう理解している。

 

現状だって恵まれている。

今、私は会社員として安定した収入がある。
投資も現時点では黒字で推移している。
食事も旅行もなにも我慢しておらず、余裕のある生活が出来ている。

 

こんなに豊かなのに、未来をやたらと悪く妄想して、
不安を発し続けている。

 

 不安という感情から解放されかけると、

「ちょっと待て。そこは不安でいなくちゃだめだろう?」

と自ら引き止めてくる感覚がある。

 

なんでダメなのさ。と掘り下げてみた。

 

・遊んでいちゃばかりではダメ。
 なにもしていないこともダメ。
 苦労をして働かなくちゃだめだろう?
 夢や生きがいのようなものをちゃんと持って、
 行動しなくちゃだめだろう?

 今のままの自分じゃダメなのに、解放されようというのかい?

 

・投資は賭け事。
 世の中には素人を喰い物にしてやろうという
 投資に関わる悪徳業者がうようよいるし。
 危ないことばっかりだよ。
 上手くいくとは限らないだろう?

 それなのに、心配も警戒もせずに、解放されようというのかい?
 
・お金がほしいと思っちゃだめ。
 それって「貪欲」という悪の心じゃないか。

 そんな悪心に基づく行動をしているというのに、解放されようというのかい?

 

・楽しんでばかりではダメ。
 享楽的、刹那的な快楽主義ってやつだろう?
 それらは悪じゃないか。

 ちゃんと将来を心配しなよ! 
 将来のことをなにも考えないより、
 将来を心配しておく方が安全だろう?

 ほら。将来を心配しなよ。不安でいなよ。

 不安でいないと不安だろう?

 

なるほど。

わたしは、不安でいないと不安なのか。

なるほど。だから手放そうとすると、不安が出てくるのか。

 

それにしても自分へのダメだしが多すぎる…。

 

わたしは褒められたいのにな。
生きてるだけで褒められたいよ。